ηなのに夢のよう DREAMILY IN SPITE OF η (講談社文庫)

ηなのに夢のよう DREAMILY IN SPITE OF η (講談社文庫)

地上12メートルの松の枝に首吊り死体が!遺されていたのは「η(イータ)なのに夢のよう」と書かれたメッセージ。不可思議な場所での「η」の首吊り自殺が相次ぐなか、西之園萌絵は、両親を失った10年まえの飛行機事故の原因を知らされる。「φ(ファイ)」「θ(シータ)」「τ(タウ)」「ε(イプシロン)」「λ(ラムダ)」と続いてきた一連の事件と天才・真賀田四季との関連は証明されるのか?Gシリーズの転換点、森ミステリィ最高潮!


『四季 秋』にも似た既刊シリーズの登場人物が総登場する贅沢な一冊。確かに本書は一つの転換点と言っても過言ではない。ただ、もう「ミステリィ」って自称・表記するの止めません? ここまで読み続けている森博嗣読者(信者?)には、一冊がミステリィであろうとなかろうと瑣末な問題なのではないか。むしろ「ミステリィ」と書くから「今回こそは」って期待しちゃう人もいるのでは?(>私だ)。特に今回は解決編を解決編だとも気づかないぐらいの結末。というか解決してるのかも不明。しかし(一応の)探偵役があの人だったのは予想外の展開で嬉しい誤算。変幻自在に探偵役を変えられるのが複数のシリーズを持つ作者の強みか。
森作品の天才、または天才でなくても頭の良い人の描き方が好きだ。ミステリでは探偵は「天才」の場合が多い。だが何ヶ国語も喋れる事や、単に作者が参考文献から調べた事(しかも何でそんな事知ってるんだという知識)を探偵に語らせるだけの博覧強記型の人物を天才だと位置づけている。しかし森作品の描く「賢さ」は処理速度の速さだと思う。(知識の)検索ではなく思考をしているのだ(by.伊坂幸太郎)。探偵役が行うのは提示された謎への合理的な解釈のみ。そこが潔い。
このシリーズは全体的にネオ・ミステリというかネオ殺人というか、既存の価値観では捉えきれない殺人がテーマになっているように思う。自分を殺す自殺、他人を殺す殺人の差異。そして、生と死。対極に見えて同じ性質のもの。これは殺人、死に対して森博嗣が繰り返し述べているから、ここら辺が今後の核となるのでしょうか? そして、あのシリーズに繋がるような、技術革新による倫理の変化がテーマになるのかな。つまり人間存在や「生きている」という定義の問題。どちらかというと観念的な方向に進むのかしら。とか言いながら、全然違ったりして…。
(※ネタバレと考察。反転→)そうか、このシリーズがあそこに続くと仮定するならば、あちらの世界観がこちらのゴール、というか道標になり得るのか。といってもそんなに性急には社会や技術に変化は起きないのかもしれないが。しかし例えば「生命が望むだけの時間を超えられる」という技術の進歩が革新的な倫理観を生んでもおかしくない。生死の境界が曖昧になり、多様な倫理観を持ち始めた社会では、人々は国家に所属するよりも小さなコミュニティに集まるようになる。その小さなコミュニティでは自分であれ他人であれ「殺す」意義・価値は減じる。生は限りあるものではなく、死も不可避ではないからだ。そこでは自分の生死、存在の範囲をコントロールする事、同じ倫理観を共有する事が重要になる。それがコミュニティを作る動機。それは自殺サイトで自殺願望を持つ者同士が集まるのと似たような動機であろう。革命の目的が既存の価値の破壊と新たな価値体系の創出ならば、彼女の一連の行動も理解できるのかも。既存の倫理に縛られた人類への啓蒙という壮大な動機(赤い彗星みたいだ…)。久慈博士や真賀田研究所での会話(人間の遠隔操作の話題→脳と身体の分離)、冷凍睡眠とかもあちら側の話に近い。このシリーズは彼女が如何にして世界を統べる女王になったかという話なのだろうか…。GシリーズのGはGoddessのG? いやQueenか? それは及介のQ(←ここまで)
とか言いながら、全然違ったりして…。 その時は即、削除(笑)
あと、赤柳探偵が私が思ってた人と違った。誰、あれ。

ηなのに夢のようイータなのにゆめのよう   読了日:2007年06月16日