少女は時をかけるが、中年は隧道(トンネル)を流れる。『エロチック街道』

エロチック街道 (新潮文庫)

エロチック街道 (新潮文庫)

エロチック街道(新潮文庫)

エロチック街道(新潮文庫)

見知らぬ夜の街で、裸の美女に案内されて奇妙な洞窟の温泉を滑り落ちる……エロチックな夢を映し出す表題作。江戸末期、アメリカより漂着した黒人達と、城をあげてのオールナイト・ジャムセッション……底抜けに楽しい「ジャズ大名」。幻想小説、言語実験、ナンセンス、パロディ、ドタバタ、純文学に至るまで、著者独自の迷宮的世界をみごとに展開する、変幻自在の18編を収録――。

本書を手に取ったキッカケは、私が多大な影響を受けた森博嗣さんの著書『森博嗣のミステリィ工作室』の中の「ルーツ・ミステリィ100」という森さんが読んで印象深い100冊を紹介するコーナーに その名が載っていたから。

購入から早10数年が経過している。
恥ずかしながら直接 筒井康隆作品を読むのは初めてです。

本書が凄い面白いかとか、個人的に好みか、と聞かれればそれほどでもないが、私なんかでも才能が爆発していることは感じられる。
言葉を選ばず、稚拙な表現をするならイっちゃってるというか、ラリってるというか。
自分の中に溢れ出す言葉をそのまま書き連ねているような疾走感・ライブ感がある。

個々の作品の集合体としての筒井康隆は果てしない大巨人であることが分かった。

次は、時でもかけてみようかな。


「中隊長」…見回りに出る中隊長の朝のルーティン。この中隊長は毎日毎朝、同じ思考を堂々巡りさせているんだろう。中隊長になる資質は備えているけれど、大隊長には絶対にならなそうだ。大局を見ない、思考力の優れない軍人が戦争には都合が良いのかもしれない。

「昔はよかったなあ」…昭和55年当時の虚実混交な昔である。2021年に読んだら一層迷宮。

「日本地球ことば教える学部」…本編こそピン芸人のお笑いのネタとして使えそう。宇宙どころか半端に日本語を習得した外国人が源氏で開設する日本語学校などで現実にありそうな授業風景。

「インタヴューイ」…まさに こういう話は一気呵成に書いているのではないかと思わせる一編。

「寝る方法」…人間の動作の一つ一つを書き上げるの、さながら美術のデッサンのようである。白紙に迷いのない線を描くように、適切な言葉を頭から取り出せるんだろうなぁ。

「かくれんぼをした夜」…ノスタルジックでありながらホラーでもある。浦沢直樹さんの『20世紀少年』の世界である。

「遍在」…パラレルワールド・ラブストーリー?

「早口ことば」…脳内麻薬が出てるんだろう。ノンストップ。

「冷水シャワーを浴びる方法」…願望と共にある怯え、過去のトラウマ。

「遠い座敷」…無限回廊。謎の建築物を一瞬で構築できるのが文章の凄いところ。

「また何かそして別の聴くもの」…違法な手段を使わずにこれだけぶっ飛べるのは才能なのだろう。

「一について」…先日読んだテッド・チャンあなたの人生の物語』の中の一編「ゼロで割る」を想起した。こっちは屁理屈だけど。

「歩くとき」…5編目「寝る方法」と同じ。歩くという基本動作を意識すると頭がおかしくなる、ってことかな…?

「傾斜」…2ページの中の はてしない空間。わー。

「われらの地図」…実際の会話の書き起こしだろうか。映像化したらそうそうたる面子(メンツ)か。

「時代小説」…時代小説っぽい何か。支離滅裂だけど文章に躍動感があるのが流石。

ジャズ大名」…本書で一番好きな短編。音楽が身を助け、そして国籍も人種も超えて人の輪を繋げていく様は痛快。さて新しい時代の幕開け。ジャズ大名様はこれまでの地位を失うってことなのかな? スイングしてれば人生か。

「エロチック街道」…隣の町までを結ぶ、長さ3キロ以上の温泉トンネル。大人のテーマパークか。狐に化かされた男が最期に見た夢じゃないよね? 現実的にゴムボートに乗ってラフティングするのは全然ロマンチックじゃないのかな。


筒井 康隆つつい やすたか  エロチック街道          かいどう  読了日:2021年02月02日

本物の陰キャと、陰キャという言葉の陰に逃げ込もうとしているだけの私。『蹴りたい背中』

蹴りたい背中 (河出文庫)

蹴りたい背中 (河出文庫)

  • 作者:綿矢 りさ
  • 発売日: 2007/04/05
  • メディア: ペーパーバック
蹴りたい背中 (河出文庫)

蹴りたい背中 (河出文庫)

第130回芥川賞受賞作品。高校に入ったばかりの“にな川”と“ハツ”はクラスの余り者同士。やがてハツは、あるアイドルに夢中の蜷川の存在が気になってゆく……いびつな友情? それとも臆病な恋!? 不器用さゆえに孤独な二人の関係を描く、待望の文藝賞受賞第一作。

なら言える、「陰キャ小説」だと。

でも、それは今だから言えること。

本書が発表された2003年にはそんな言葉を世の中は認知していなかった。
しかし本書は紛れもない「陰キャ小説」であるところが、本書の凄いところなのではないか。

まだ世間が名付けられない、カテゴライズすらされていない特性に目をつけて、
それを物語の中心に据えたこと、それだけで本書は価値がある。

2021年に読んだ人、特に今の高校生たちが、違和感なく、
むしろ登場人物たちの造形を、
当たり前のように感じられることが、本書の恐ろしさだ。
まるで、この本に世間が引き寄せられていったのではないか、とすら感じる。

10年後に市民権を得て、15年後には当たり前に自分から自称するようになった概念を、
2003年の時点において鮮烈に描き出している。
そんな予言書のような先見性が、怖い。


場人物たちへのキャラ付けは、主人公の長谷川(はせがわ)と、
結果的に彼女が背中を蹴りたくなる男子生徒・にな川(にながわ)に大きな違いをもたらす。

私はここに本物と偽物の差を感じた。

にな川は正真正銘の「陰キャ」である。
しかし 多分、今の時代にあっても彼は自分が陰キャであることを意識しないかもしれない。
本物は、そこにいるだけで本物なのだ。

一方で、長谷川は偽物だ。

彼女は陰キャというよりも、友情ニート・友情 燃え尽き症候群が適当だろうか。

中学時代の経験から高校では誰とも群れないことを選んだ。
そして群れることで傷をなめ合っている人間を見下すことを選んだ。

だが彼女は、にな川のように完全に独立した存在には なれていない。

その証拠に、解説の斎藤美奈子さんが指摘する通り、彼女の五感は常に動いている。

教室や、学校の様々な空間の中で何が起きているのか常にセンサーを働かせている。
だから、その聴覚が察知する音を言語として捉える。

見下すことにした生徒たちの会話も しっかり言葉として聞いて、
彼らが時々 放つ、奇跡みたいに おもしろいこと に笑わないように努力をしている。

彼女は何かを悟ったように切り捨てているように見えて、何も悟っていない。
そして それは彼女自身が痛いほど理解しているはずだ。
家でも学校のことを考えるなど、煩悩が捨てきれていない証拠だ。

そして きっと にな川の感覚を文章に起こせば、何の音もしていないだろう。


書は、人として、より高みにいる にな川への長谷川の師弟愛を描いているのだろうか、と考えた。

徹底的に世界と隔絶している孤絶の師匠・にな川への尊敬、嫉妬。
そして炙り出される自分の矮小性と、逆恨み。

自分にとって様々な感情を揺り起こす存在となった にな川に対し、
にな川にとって ほぼ無価値に等しい自分。

本物に近づこうとするが、近づけば近づくだけ本物の狂気と、
そうはなれない偽物の自分の繕ったキャラが露呈していくだけ。

これは偉大なる師匠を前にして、
師と共に行動をしても、修行を重ねても、禅問答で師匠に否定される弟子のようである。

そんな愛憎 相半ばする師匠に自分の存在を認めさせたくて、
長谷川が採る手段が「蹴ること」なのかもしれない。

機会が巡ってくるたびに、その背中を蹴って、
外界から隔絶された師匠を俗世に蹴落としたいのかもしれない。

そこには偶像としてのアイドルではない、
肉体を持った自分がいること、それを信奉者の師匠に痛覚をもって理解させる。

本物の「陰キャ」は物語に宗教的構図すら想起させるのかもしれない。


終幕の続きはどうなっていくのだろうか。

偶像の降臨を目の前で見た師匠は、これ以上ないほど取り乱した。
そのことが師匠の目を覚まさせ、自分を蹴る足を、足の持ち主に意識を移すのだろうか。

それとも、修行が不足する自分を反省し、一層、偶像崇拝に没頭するのだろうか。

なんせ相手は本物である。
五感は遮断され、俗世の感情など とうに捨てているかもしれない。


にしても斎藤美奈子さんの解説が素晴らし過ぎて、もはや書くことがない。
こうやって五感を研ぎ澄ませて小説を読み、独自の視点で感想を書きたいものです。


綿矢 りさわたや      蹴りたい背中け     せなか  読了日:2021年01月02日

雑菌だらけの この世の中にある、共助と幸福について。『雪と珊瑚と』

雪と珊瑚と (角川文庫)

雪と珊瑚と (角川文庫)

21歳シングルマザー珊瑚の、ハートウォーミング・ビルドゥングストーリー。
珊瑚21歳、シングルマザー。追い詰められた状況で一人の女性と出逢い、滋味ある言葉、温かいスープに生きる力が息を吹きかえしてゆき、心にも体にもやさしい、惣菜カフェをオープンさせることになるが…。

頭にあるのは圧倒的な「個」もしくは「孤」。

主人公の珊瑚(さんご)は現在21歳。20歳の時に結婚して1年余りで離婚。
その間に出産しており、娘の雪(ゆき)は生後7か月余りで、この頃は離乳食を始めている。

現在、シングルマザーで職も収入もない珊瑚。
預金の底も見え始め、働きたいが、働き口を探すにも、まず娘を どこかに預けなければならない。
しかし保育園など行政による公助には『杓子定規な「店員数」や「規定」を盾に冷たく門前払いされ続け』た。

当初、珊瑚は家族や社会や組織、何にも繋がっていない。
確かな繋がりは自分が生んだ娘・雪だけである。

そんな時、近所の散歩道で目に入ったのは「赤ちゃん、お預かりします」という一軒家の貼り紙。
背に腹は代えられない珊瑚は いくぶん警戒しながらも、その家の呼び鈴を押す…。


が少し進んで、珊瑚の周囲の人々や環境が段々と見えてきても、
そこにあるのは「個」ばかりであった。

例えば、雪を出産する時、珊瑚は出産費用を生活費に回すため、
当時、助産師の専門学校に通っていた同じアパートの住人・那美(なみ)に出産を頼んだ。

「赤ちゃん、お預かりします。」という貼り紙のあった家に独りで暮らす家主 くらら も資格はない。
彼女にとって この手の仕事は初めてらしい。

だが、社会全体から拒絶されたような珊瑚の心には、くらら の書いた貼り紙が、
「まるで体に欠けていた栄養素のようにすうっと入って」くるのだった。

珊瑚の娘・雪は その誕生から無資格の人間によって取り上げられ、
新米の母との半年の生活の後は、また無資格の素人と日中を過ごすことになる。

ちなみに珊瑚は国民健康保険に未だ加入していない。

まるで あらゆる社会制度から見放されたような珊瑚 母娘。
そんな中、珊瑚に力を添えてくれるのは個人だった。

本書は公助ではなく、共助を強く感じさせる物語だ。


が感想文を書くにあたって考えたのは、天災と復興だった。
本書の単行本は2012年4月に刊行された。
日本では、その1年前の3月には大きな災害があった。
なので、梨木さん流の復興の物語なのではないか、と思って読み解いた。

…が、調べてみると雑誌連載の開始はその前年らしいので、梨木さんが震災を念頭に置いているわけではないみたいだ。

だが、くらら が過去の海外の地震での活動や見聞を語る場面は印象的だ。

「どんな絶望的な状況からでも、人には潜在的に復興しようと立ち上がる力がある。
 その試みは、いつか、必ずなされる。」

また、出産前まで珊瑚がアルバイトしていたパン屋の閉店と店主たちの移住も、
震災の影響や避難と考えることも出来る。

災害(離婚)が珊瑚から安定を奪い、それならば自力での自分の生活を再建を試みる物語と読めなくはない。

また、最終盤で主人公に送り届けられる悪意のこもった手紙は、
被災者へ向けられる悪意に近しいものを感じる。

相手が被災者や社会的弱者、不幸な境遇の人であっても、
悪意を向けてくる人は一定数いることは日本国民の悲しい側面ということは幾つかの例がある。

頑なだった珊瑚の心が、未曽有の危機に際して、
共助を受け入れる心の在り方を学び、やがて公助の力を借りて心の復興が成される話とも読める。


変わらず、梨木作品を読むと背筋が伸びる。
生きることに誠実になろう、
少なくとも ちゃんと食べようと決意するような作品だ。

少し時間が経過し、娘の雪がつかまり立ち、ひとり立ち を出来るようになる頃、
珊瑚は閉店するアルバイト先のパン屋の次は自分で店を開こうと未来を開拓することになる。
娘と共に親もまた同じように成長していく。

若い女性が食事を提供する店を開く小説、といえば、
以前読んだ『食堂かたつむり』が まず浮かぶ。

確かに外殻は とても似ている。
ただ、梨木さんが同じ物語を書くはずがない(贔屓目かもしれないが)。

私が その作品を快く思っていない部分も大きいが、
私には本書全体が『食堂かたつむり』への反駁に勝手に思えた。
(梨木さんが読んでない可能性の方が高いが…)

どちらの作品でも確執のある母親がいるのだが、
その対峙の仕方や、お金の工面の方法などの面において本書の方が誠実である。

他にも、くらら を中心として語られる挿話や、そこに含まれる精神性など栄養素の種類が違う。


書には確かに、あらすじに ある通り「ハートウォーミング・ビルドゥングストーリー」の部分がある。
だが、この2つの単語は別々に考えた方がいいだろう。

娘の雪の成長、温かい周囲の人々の差さえなどが「ハートウォーミング」の部分。
そして、店を開くという目標に向かって数字と格闘したり、
他者に恃(たの)む部分を自分の中の持てるように意識が変わる部分が「ビルドゥングストーリー」に該当する。


しかし本書の最も大事な部分は、お店づくり や順調に伸びる客足などではない。

一見、経営者としても親としての私生活も順風満帆に見えるのとは裏腹に、
ラスト40ページ辺りから立て続けに珊瑚の胸に広がる染みこそが本書の本旨だと思う。

ある夜、疲れ果てた珊瑚が雪に対して取った行動。
それは珊瑚の母が珊瑚に行った何千分の一の行為であるが、
ただ確かに同じ方向性を持つ自己中心的な扱いを娘にしてしまった。

珊瑚は、21歳のシングルマザーという世間一般の、少なくとも私が思う人物像とは かなり違う。
彼女が発する話は論理的で理知的で、精神的にも強くあろうとしている。

これまで雪の誕生前後から起こる幾つかの危機を「共助」によって助けられてきた珊瑚。

しかし「共助」に寄りかからず、今度は自分個人で向き合うと決めた問題で、
限界を超えた彼女は、そこに自分の本質を見てしまった。

これこそ、反りの合わない美知恵が、わざわざ手紙にしてまで指摘する珊瑚の「ほんとうの自分」かもしれない。

そこから更に速度を上げて、珊瑚の心の掘削は続く。
ずっと引っ掛かっていた恩人の言葉、自分を捨てた母への向き合い方、
自分ひとりで決めてここまでやってきたという驕りも捨てて、彼女は自分の正体と本心を認める。

この後で珊瑚が倒れたのは、かつて発熱した雪と同じように、
珊瑚が「一生懸命、雑菌だらけのこの世の中に適応しようとしている」からではないか。

そして「体にこの危機を乗り越える経験」が、人を昨日より強くし、新しい明日をもたらすのだろう。


書では雪の成長、自立や歩行は、珊瑚の それと呼応しているのかな。

と考えると、終盤の雪の夜泣きは珊瑚の心の叫びでもあったのか。

お店の拡大や母との対面など珊瑚の休まらない精神が雪に感応したのかもしれない。
雪は泣き続けることで、限界を迎える母に警告を出していたのか。


そして冒頭の雪が月齢7か月で、離乳食を始めた頃というのも大事な要素だろう。
彼女は「食べること」を始めたのだ。

食べることで結ばれた人と人の絆。
雪の離乳食の開始はその始まりであった。


私としては雪がラストで発する幸福な言葉よりも、
その言葉を発する雪を珊瑚が見て、

「なんてかわいいのだろう。世界中にこんなに可愛い子がほかにいるだろうか」

という言葉に、涙腺が刺激されます。

これは真面目な子育て、母を反面教師とした固定観念の母性から解き放たれた、
珊瑚だけの、珊瑚から生まれた嘘偽りのない言葉だ。

その宝石のような言葉こそが、幸せの形ではないだろうか。


梨木 香歩なしき かほ  雪と珊瑚とゆき  さんご    読了日:2020年12月24日