ミステリ作家にして名探偵エラリー・クイーンが出版社の招きで来日、公式日程をこなすかたわら、東京に発生していた幼児連続殺害事件に関心を持つ。同じ頃アルバイト先の書店で五十円玉二十枚を千円札に両替する男に遭遇していた小町奈々子は、クイーン氏の観光ガイドを務めることに。出かけた動物園で幼児誘拐の現場に行き合わせるや、名探偵は先の事件との関連を指摘し…。


ミステリ界の神様エラリー・クイーンの未発表遺稿を北村薫さんが翻訳したという設定のミステリ。クイーン作品を一冊も読んでない私は長らく敬遠していたが、(公式設定はどうであれ)このまま北村作品を放置するのも損だと考えて手に取ってみた。序盤こそ翻訳本っぽい文体に顔を顰めていたものの、中盤のクイーンと読者の問答によるクイーン論は完全なる門外漢の私でさえも「ほぉ」と、「クイーン文学」が謎解かれていく美しい論理に溜息が出た。理路整然とした論理は例え専門外の論文であっても読ませる力がある、という事を改めて思った。
本書は様々な試みに満ち溢れている本である。本流の幼児連続殺害事件に加え、作品全体が上記の通り著者のクイーンのパスティーシュであり、傍流としてクイーン文学論が挿入され、更には本書は93年出版(単行本)の『五十円玉二十枚の謎』の北村さんの解答編でもある。クイーンの翻訳本であるから北村さんの姿は飽くまで紙背に隠れているが、その働きは八面六臂。ただ技巧の限りを尽くした本書がミステリとして成功しているかと言うと…。
上記の通り、一番面白かったのは一番興味の薄かったクイーン研究であった。反対に一番期待していた『五十円玉』の謎は、正直10数年(私は10年弱)待っていたのにクイーンを隠れ蓑に使われたと思った。あの<日常の謎>派の創始者の北村さんには、現実の謎にも快刀乱麻を断って欲しかった。せめて『五十円玉』の謎には「翻訳本」ではなく別の作品(円紫さんや、完結してるがお嬢様)で挑んで欲しかった。一球限りの登板が変化球勝負なのは残念だ。
私は作品全体がクイーンのパスティーシュと言われても、文体にしろ論理にしろクイーンらしさとは何なのかが感応できる素養・読書歴がないから真正面からは批判しにくい。表層的にはミステリとして非常に微妙な作品だと思うが、それは奥行きや妙味を理解できないからだと思うと的外れな指摘ばかりしてしまいそうだ。解説などによると、本書の観念的な真相や動機さえも後期クイーンのダメダメっぷりの模倣らしい。そういわれると北村さんには何も言えない。北村さんは悪くない、悪いのはお手本である後期クイーンなのだという論理が成立する。逆に喪失を体験した人の心情表現は紛れもなく北村さんの「心」を感じた。
本書が幻の本ならば、作中の舞台もまた幻の国「ニッポン」である。しかし体裁を無視してしまうと現実と架空の作為的な「ズレ」や、その「ズレ」を訂正する北村さんの補足説明が狙い過ぎて白々しく感じられる。それが遊び心なのだけれど…。
読書中は現実と非現実、作品とメタ、書籍同士の結びつきなど、視点や思考があちこちに飛んだ。それはとても奇妙で貴重な体験だった。クイーンが登場するが北村さんの作品で、作中の事件(五十円玉)は現実に起きていて、クイーン自身が否定しない北村さんのクイーン論文はさも定説のように感じられる。ただやっぱり本格ミステリとしての完成度に不満が残ってしまう。

ニッポン硬貨の謎  エラリー・クイーン最後の事件ニッポンこうかのなぞ  エラリー・クイーンさいごのじけん   読了日:2010年10月05日