一年が 一日が 一瞬が 何秒かなんて 考えたことないでしょう?『風は予告なく吹く』

風が強く吹いている (新潮文庫)

風が強く吹いている (新潮文庫)

風が強く吹いている

風が強く吹いている

箱根駅伝を走りたい――そんな灰二の想いが、天才ランナー走と出会って動き出す。「駅伝」って何? 走るってどういうことなんだ? 十人の個性あふれるメンバーが、長距離を走ること(=生きること)に夢中で突き進む。自分の限界に挑戦し、ゴールを目指して襷を繋ぐことで、仲間と繋がっていく……風を感じて、走れ! 「速く」ではなく「強く」――純度100パーセントの疾走青春小説。

一説によるとイメージトレーニングをするだけでも筋肉は動くらしい。
本書を読書中の私の筋肉も きっと動いていたに違いない。
例え こたつの中で寝っ転がりながらでも読書中ずっと走っている感覚があった。

人は走るために存在しているのかもしれない。
そんなことまで考えてしまう「純度100パーセントの疾走青春小説」。


本書の題材である箱根駅伝を最後に見たのはいつだろう。
2021年も見なかった。考えてみれば ずっと見ていない。

本書を1月に読んだのも箱根駅伝の中継を見た影響ではない。
そろそろ読まないと、読まずに死ぬこともあり得ると思ったからだ(体調が安定して悪い)。

そうして本書を読了したことで2000年代におけるスポーツ小説 四天王を完全読破することが出来ました。
森絵都さんの『DIVE!!』あさのあつこ さん『バッテリー』佐藤多佳子さん『一瞬の風になれ(感想文なし)』。

どれも忘れがたい読書体験となりました。
これらの作品を繰り返し読んでいけば身体が どれだけ絞れるだろう…。

余談ですが、『一瞬の風~』以外の映画化された3作品で主演を同じ方が務めている共通点に驚く。
こんなにジャンルの違うスポーツを みっちりと練習する人も あまりいないだろう。


書は、抜かりない采配を振るう選手 兼 コーチの大学4年生・清瀬 灰二(きよせ はいじ)が物語の屋台骨だ。

彼がいなければ誰も大きな目標に向かって走り出さなかっただろう。

それと同じように本書を手に取り、完走を目指す者にとっての名コーチは作者自身だろう。
作者の名采配が無ければ約670ページにも及ぶ作品を途中で脱落する人が数多(あまた)いたはずだ。

多くの読者に完走をさせるための巧みな構成、
特にスタートしたら あとは もう前に進むしかない、と思わせる後半は秀逸である。

読者の心を鷲掴みにする冒頭から素晴らしく、
なんと主人公の1人・蔵原 走(くらはら かける)は、パンを万引きをして店から逃げるために走っている。

更に無一文の走が清瀬に連れてこられる学生寮・竹青荘(ちくせいそう)の個性的な面々。
彼らの人物紹介という最初の一山を越えてからの本題への突入。

このペース配分の巧みさよ。こうやって読者は先へ先へと導かれていく。


本書は竹青荘に住む清瀬の他 9人の学生と共に9か月余りで箱根駅伝出場を目指す物語だ。
運動経験のないメンバーもいる中で、清瀬箱根駅伝の挑戦を宣言する。

突然の宣言だが、清瀬には最大3年の入念な準備があった。
竹青荘に集まったメンバーは彼の審美眼によって集められた先鋭ともいえる。
そして清瀬に少なからぬ恩があったり、言葉巧みに操られたりと、彼の手のひらの上の住人ともいえる。

最初の一歩が踏み出されれば、あとは ひたすらゴールに向かうだけ。
多くの読者の分身ともいえる素人たちがどこまでやれるのかという期待も乗せて、彼らは走り始める。


間で言われている通り、本書の欠点はリアリティの欠如かもしれない。

4月~翌年1月2日までの1年未満の練習で10区間を走る箱根駅伝に最小限度の人数10人での出場を目指す物語。

私も この漫画的な、あまりにも漫画的な設定は気になったところ。
後に漫画化やアニメ化されるのも納得する原作小説である。

ただ私は読了して、作者のリアリティとファンタジーの間隙を縫うような絶妙な設定に感心してしまった。

作者は題材として箱根駅伝を採り上げることにしてから、
当然ながら箱根駅伝を軽んじるような描写や展開は書かないと心を戒めただろう。

その自戒と創作の間に生まれたのが本書の構想だと思われる。

小説としての面白さを備えつつ、「箱根」を走る孤独と喜びも十全に表していることが本書の勘所ではないか。

リアリティを追求したいのならノンフィクションを読めばいい。
でも、ノンフィクション作品では こんなに多くの読者をゴールには導けなかったはずだ。
スポーツ小説を読まない人も完走させる、それが作者の大いなる目的ではないか。

だから重複する練習風景や走る際の苦しさは極力 抑えている。

軽く触れる程度にしか描かれていない練習メニュー。
それらを こなすことが どれだけ大変かは何度も書かない。
読者が飽きてしまうから。
走ることに倦んでしまうから。

しかし彼らは着実に練習を こなした事実がある。
強豪校に比べれば積み重ねてきた絶対的練習量は少ないかもしれない。
だけど予選会を勝ち抜けるだけの必要最低限の練習は達成している。

敢えて軽やかに書いていることの裏にこそ、読み取るべきところがある。

でたらめにならないよう絶妙に調整された現実と嘘の配合量。
私は そこにこそ作者のコーチとしての手腕を見る。


品のペース配分も大胆である。

前半が清瀬の箱根出場宣言から始まって練習と、箱根駅伝出場が決まる予選会まで、
後半が箱根駅伝出場決定から2日間10区の激走となっている。

やはり、前半のハイペースが際立っている。
後半の当日の模様をしっかり書きたいという意図もあるだろうが、
前半をハイペースにしたのは、やはり走り慣れてない読者にも
ついてきてもらいたいという心遣いのように思う。

どんなにタイムが遅い者でも一人の脱落者も出さないように気を配る清瀬(と作者)。
そしてそのタイムが練習を重ねることで確実に縮まっていくのが最初のカタルシスとなる。

最初は歩いていた長い距離も、吐くほどに苦しい山道も、
練習を重ねれば呼吸を乱さずに走ることが出来るようになっていく。

この「出来ない」から「出来る」は、
まるで読者自身が褒められたように次の一歩へのエネルギーに変わる。

ずっとタイムが遅く、練習でも最後尾の「王子(あだ名)」にも清瀬は何度も戻って声を掛け続けた。
自分がいることを忘れていない、認めてくれる、そんな心遣いが作品に通底している。

名コーチのお陰で、決して短くない本書を完走できた事実は、
小説に不慣れな人たちの大きな自信になるのではないか。

走ることは生きること、と同じように、読むことは生きること、に繋がる人もいるはずだ。
読者も完走しても また 走り続ける体力と自信が ちゃんと付いている。


して夢を驀進する彼らに現実が降りかかるのは、
箱根駅伝の予選会を通過した後という構成も心憎く、そして ほろ苦い。

予選会をギリギリで通過した自分たちに優勝という目標が設定できるのか。

精一杯の努力を重ね大きな山を越えたからこそ痛感する努力の壁。
そして自分の限界という壁。

箱根駅伝に出場することがゴールではなく、
彼らが素人集団だからこそスター選手にだけ付与された才能と、その先の果てしない世界の険しさが分かる。

これが最大で4年間、いや箱根駅伝に出場するために人生を賭けている人への作者への最大限の敬意だろう。

物語の目標を優勝ラインに置いたら それは本当に少年漫画の類になってしまうが、
詳細な個人の区間走行タイムの設定といい、これも作者の綿密なバランス感覚の賜物だろう。


また後半、各区間の走者が自分の来し方を回想し、行く末を見つめるという構成も素晴らしい。

それまでは表面上の、ややデフォルメされた性格しか表されなかったが、
本番当日に彼らが抱いてきた想いが初めて余すことなく語られる。

走ることで過去と現在と未来が結ばれていく。
そう思うだけで ただただ涙が溢れて止まらない。

これも作者の巧妙なペース配分か。
10人しかいない彼らを1人ずつ好きになっていく。
どうか、どうか走ることを止めないで、と読者は祈るような気持ちでページの上を走破していく。

そして何より、個性豊かな面々が独りで走っているのに、
ここにきて彼らにチームとしての一体感が生まれていることを知る。

繋がれる襷(たすき)の重さを、初登場・初挑戦の彼らも読者も 当日になって初めて感じることになる。


が一番気になったのは、物語の設定自体ではない。

もっとも気になるのは最終盤の清瀬と走の耽美な描写だ。
作者はスポーツ小説において これが書きたかったんじゃないか、と疑わずにはいられない。

どこかの媒体でご自身を「関係性フェチ」だと仰っていた作者。
走と清瀬の関係性はまさに作者好みだろう。
過分に友情を超えてキラキラしている。

そうなると走の葉菜子への恋情は、清瀬との関係は決してBLではありませんという言い訳にしか感じられなくなる。

双子を含めた恋の結論をボヤかしているところを美点と取るか、
それとも作者が自分の脳内世界を保護するための手法と取るか難しいところである。

2人が たどり着いた境地がそこなの?という疑問だけが微かに残る。


そういえば冒頭の走の万引きが、後々になってチームの足を引っ張る伏線だと思い込んでました。
その場面が いつ来るかと ずっと恐れていたんですが、そこは杞憂に終わりましたね。
(特に走が万引き犯を捕まえることが、発覚の契機になると思った)


三浦 しをんみうら       風が強く吹いているかぜ つよ  ふ         読了日:2021年01月10日

人の問題に首を突っ込みたくない ”センセイ” が保つ 面倒くさソーシャルディスタンス。

([あ]6-1)学校のセンセイ (ポプラ文庫)

([あ]6-1)学校のセンセイ (ポプラ文庫)

「そうなんだよ。面倒なんだよ。教師って」
なんとなく高校の社会科教師になってしまった桐原。行動原理はすべて「面倒くさい」。適当に教師生活を送ろうとするものの、なぜか周囲の人間たちが彼に面倒ごとを持ちこんでくる。酔うと“女モード”に変身する友人、素行不良の生徒に、一方的な好意を寄せてくる生徒、神経質すぎる同僚の教師に、ヘンな格好をした隣人……。小説すばる新人賞作家が描く、誰よりも“教師らしくない”青年の、誰よりも“センセイ”な日々。笑って泣ける新しい青春小説の誕生!

人公は社会科教師・桐原 一哉(きりはら いちや)。男性、年齢は26歳。

彼は何事においても「直接」がない男である。

例えば彼には教師になる前には2年間、
地元の埼玉で塾講師をしていたという職歴がある。

教員免許は持っていたが、新卒で直接 教師を志望したわけではなかった。

2年間の塾講師生活の後、全国各地の教員採用試験を受け、名古屋で受かったため、
その地の私立高校で教師となり 勤務2年目である。

教師としての仕事は副担任で、
一歳年下の先輩教師・永野(ながの)のサポート役。

部活動の割り当ても副顧問で、顧問の永野に比べ真面目さが足りない。

名古屋で飲みに出掛ける間柄の友人・中川(なかがわ・女性)は、
同じ高校の同級生だが、在学中は直接の面識がなく、
名古屋に赴任することになってから友人に紹介してもらった。

更には住居地も勤務先の名古屋市内ではなく、市にはギリギリで入らない街らしい。

そして その部屋の中はグレーとか、ベージュとか中間色ばっかりのシンプルな部屋。

これだけで彼の性格設定が分かるというものだ。
彼は自分と物事の間には必ずワンクッション置いている。


の教師としての態度もそんな感じである。

学校の中で「センセイ」を演じる自分と、
生徒の好き嫌いや同僚の教師たちを辛口に観察しては、内心で本音を呟く自分。

まるで二重人格のように乖離した2人の自分を器用に使い分けながら、
優しいけれど冷たく、投げやりながら真面目に教師生活の日々を重ねる。

しかし桐原は本質的に優しいと思われる。
土地勘のない場所での家探しの際の不動産屋との駐車代の会話、
自分が親切にした相手との会話の中で、
相手に余計な気を遣わせないように会話を盛り上げようとしているのだ(空回るが)。

万事が面倒くさく、無気力を装って入るが、悪い人ではない。
そういう彼を主人公に据えているから物語は温度も湿度も適当に保たれる。


んな世界が中間色の彼の視界の中に直接 飛び込んできたのが
ポスターカラーの服を着た女性に、紺色のミニクーパー
そして かつて喉から手が出るほどに欲していた真っ赤なバイク・ヴェスパ。

冒頭のシーンの飲食店で居合わせたイエローのミニスカートの女性・小枝(さえ)。
何かと縁が出来る彼女だが、それが直線的に恋愛になるかというと別の話。

なんといっても「間接ワザ」の桐原なのだ。

ここでも彼女と自分の間には、彼女の年下の恋人というワンクッションが置かれている。
その年下の彼が現役の高校生だということも桐原にとっては大きなクッションか。

小枝の年下の恋人・涼(りょう)を学校の生徒のように冷静な目で観察し対応する。
桐原が彼を一人の十代の少年と認識し、二十代の大人として、男として向き合うのはまだ先のことである。


分を客観視できる/してしまう桐原が主人公だから軽妙に読める作品だが、
教師という仕事の大変さが そこかしこに散見される構成に著者の巧みな手腕を感じる。

学校は行事に追われ、教師は日々仕事に追われる。
向き合うべきは多感で不安定な生徒たち。
生徒たちの学校外での生活トラブルも適切に指導しなければならない。

それをうまく処理できない教師もいる現実。
様々なタイプの教師を配置しながら、桐原が選ぶ先生像が少しずつ形成されていく。

教師という職業と長い間向き合っている人には、
桐原の無難主義も お見通しだと間接的に指摘されて、
桐原が大きく動揺するところに桐原の伸びしろを感じる。

また気安い間柄だと安心していた生徒が自分よりも善人だと分かって
再び動揺し、反省する桐原の姿も滑稽で、そして切実だ。

自分と仕事に改めて向き合い始めた桐原センセイはこれから先生として大きく成長するだろう。


しかしたら桐原が塾講師から転職したのは、彼なりの変身願望だったのかもしれない。

講師として生徒や親から常に(不)人気投票のように監視され続けるよりも、
心持ちこそフワフワとしているが、センセイという職業になることで人と向き合いたかったのではないか。

更にその地の試験に合格しただけという理由ではあるが、
生まれ育った地元・親元を離れて一人で暮らしてみる、というのも
これまでの自分からの脱却と新生の一歩だったのではないか。

後半で明かされる桐原にとっての一つのトラウマ。

そこから彼は逃げ出したくなったのだろうか。
それとも縁もゆかりも無い土地で自分を鍛えなおしたかったのか。

彼は面倒くさがりだから本音は言ってくれないが。


盤、物語はドミノ倒しのように次々と問題が起こる。

真面目な先生にも、不真面目な桐原センセイにも手に負えないような事態が連続する。

そこで浮かび上がってくるのは、面倒くさいとも言えなくなった桐原の本音。

困った時に助けてもらう人は誰なのか、
傷ついた生徒をどう救えばいいのか、
ずっと見ないふりをしてきた一線を越えるべきなのか、

桐原は一つずつ自分で答えを出していかなければならない。

冒頭から登場していたバイクや、足の震え、女モードの友人への忌避感など、
全てが桐原個人の体験に繋がっていく構成が見事。

名古屋を一緒に楽しみたい人がいるという結末も秀逸。

精神的には根無し草のように揺蕩(たゆた)っていた彼が、
働く場所として、生活の場として、名古屋の土地に根付こうとする証拠だろう。

生まれ変わる、というほど大袈裟ではないが、
本書は教師として自覚が出たという桐原の、静かなる宣誓のように思う。


余談としては自分からは自分のことを多く語らない桐原が、
副担任として接する女子生徒・優花(ゆうか)の丁寧かつ適切な距離を保持したままの質問攻撃によって、
彼の個人情報が続々と漏出していく様が面白い。

その身長や兄弟構成とその職業などなどの個人情報が、
私たち読者にも桐原という人物を知る機会を与えてくれている。


舞台が名古屋なので名古屋の学校あるある が ちょっとずつ挿まれているが、
中でも、名古屋では放課後という言葉を使わないことに驚いた。

じゃあ東野圭吾さんのデビュー作『放課後』も、
名古屋では『授業後』に改題されるのだろうか(んなわけない)。


飛鳥井 千砂あすかい ちさ  学校のセンセイがっこう          読了日:2020年12月21日

書き手の「編著」というのが適当だろうか。ミステリ風な謎の設定と意外な真相の構成が秀逸。

永遠の0 (講談社文庫)

永遠の0 (講談社文庫)

永遠の0

永遠の0

「娘に会うまでは死ねない、妻との約束を守るために」。そう言い続けた男は、なぜ自ら零戦に乗り命を落としたのか。終戦から60年目の夏、健太郎は死んだ祖父の生涯を調べていた。天才だが臆病者。想像と違う人物像に戸惑いつつも、1つの謎が浮かんでくるーー。記憶の断片が揃う時、明らかになる真実とは。

書中、頭に浮かんだ言葉は「矛盾」だった。

特に、『永遠の0』という書名の通り、
昭和15年に正式採用された「零戦(ゼロせん・レイセン)」の矛盾が心に残る。

零戦は卓越した格闘性能に加えて、開戦当初は世界最高速度を誇り、
更には航続距離が3000キロと桁外れの戦闘機であった。

本書は『「娘に会うまでは死ねない、妻との約束を守るために」
そう言い続けた男は、なぜ自ら零戦に乗り命を落としたのか。』という一人の男の矛盾と共に、
そんな戦闘機を日本軍が開発したことによる功罪が順を追って描かれる。

零戦の導入後、日本軍は空戦で無敵に等しく、破竹の勢いで敵国を撃破していく。
だが戦争の長期化と戦線の拡大によって様々な弊害が露になってくる。

その原因が零戦の優秀さにあるという矛盾に 遣る瀬無さを感じる。
中でもその矛盾を一番感じさせるのが、零戦の航続距離に依存して立てられた作戦。

零戦が長距離を航行できてしまうが故に、
移動後の戦線におけるパイロットの疲弊を勘定に入れない作戦がまかり通ってしまった。

そして、その作戦で真っ先に失われたものは熟練の技量を持つベテランパイロットたちであった。

優れた零戦の能力が、間接的に優れたパイロットの命を奪うという矛盾。


そして戦争が複数年に亘ることで、敵国は技術の刷新があったにもかかわらず、
日本国軍は後世を担うような新たな戦闘機を開発できなかった。

当初は栄華を極めた零戦が、他国の技術革新によって凋落していくが、
過去の栄光があるが故に、日本ではイノベーションが起きなかった。
そして二の矢 三の矢を放てないまま、かけがえのない人的資源を最初に失う。

これは平成の失われた時間の中での日本と同じ現象かもしれません。
優れた指導者のいない社会は衰退に向かう運命にある。

開戦時は意気軒高な若者のようであった零戦が、
歳を重ねてロートルになった上、戦局の悪化で身体を構成するパーツも粗悪になる悪循環が起こる。

まるで零戦こそが日本国における戦争の栄枯の象徴であった、
そう感じられる巧みな構成には舌を巻く。


して、もう一つ描かれるのが、宮部 久蔵(みやべ きゅうぞう)という男性の矛盾。

宮部と共に戦場で過ごした複数の元・兵士たちの話を聞くことで徐々に浮かび上がる祖父の姿。

誰よりも死にたくないと願っていた人物の最期は特攻であった、
この最大の矛盾した謎を本書は宮部の太平洋戦争における転戦の様子と共に解き明かす。

不敬かもしれませんが、ミステリとしたら、この矛盾の創出こそ最大の魅力である。

死という絶対的な結末と、そこから遠い場所に自分を置き続けようとした祖父の姿。
それらの点と点が結ばれる最終盤は落涙必至です。

物語を牽引する最大の謎と巧みな構成、意外な伏線、
どれもが綺麗にまとまっており、評価が高いのも納得できる。

本書がミステリ風な構成を見せる最も顕著な場面は、
(ネタバレ→)祖父の最期を知っていた人が一番 身近にいた(←)ことであろう。

これは意外な真相として、これまで それほどミステリに触れてこなかった人たちに、
祖父の最期の行動に加えて、更なる感動・カタルシスを生んだのではないか。

そして当たり前だが、主人公たちと直接対話できるのは、
あの戦争を生き抜いてきた者だけだという真実が痛い。

本書が出版された2006年で戦後60年余、
2021年の現在では75年にもなる。

いよいよ、戦時下を経験した人、特に戦場に出た方々は少なくなってきている。
本書の中の言葉と戦争の実態を忘れないこと、それも一つの平和貢献になるかもしれない。

作中で語られる戦争の内容も相まって、多くの人に読まれるべき作品だ。


だ、読書中、物語に感動する私の後ろに作品としての矛盾を持ち続ける冷静な私がいた。
本書は百田尚樹・作ではなくて百田尚樹・編なのではないか、と。

本書における百田さんの役割は資料を再編成・再構成しなおすこと。
それはまさに本業であった放送作家の仕事そのもの、と思わずにはいられない。

本書は小説家の作品としては決して褒められない気がする。

特に現代パートである主人公・ 健太郎(けんたろう)たち姉弟と、
彼らを取り巻く人々の余りにも象徴化された設定と内面描写にそう思わざるを得ない。

基礎となる資料があって引用・再構成している部分と、
現代パートでの作者の創作の部分では伝わってくる熱量が違いすぎる。

戦時下の若者と対比するために平成時代の若者を
作為的に薄っぺらくしているところはあるだろうが、
素直すぎるぐらい素直に彼らが感情を揺さぶられる様子に白けてしまう自分がいた。


そして全体的に、教育番組を見させられているような気分になった。

環境問題、SDGsなどの社会問題を小中学生に啓蒙する教育番組、
用意された疑問と その回答、そして ある種の方向性をもって作られた作品のように感じられる。

私が問題にしているのは政治思想などではなく、
「ひどい!」「最低ね」と子役のように台本通りに演技をする主人公たちの姿である。
彼らには思考というものが無いように思えてしまう。
ここは小説としても大きな欠点だ。

新聞記者・高山(たかやま)や新聞社を、
単純な構造・論理で悪役に仕立てる様も目に余るところ。

また主人公・健太郎は眠れる才能などが美化されるのに対して、
姉の慶子(けいこ)の扱いは雑で、やや感情的な人物として描かれる。
なんだか男尊女卑を感じる。


そして構成上仕方がないが、コンタクトの取れた戦友会の面々が、
時系列の古い方から並んでいることも作為を感じる。

全体的に、構成に無駄がなく綺麗すぎるのだ。

主人公たちが多くの情報から事実を抜き出すのではなく、
作者が用意した事実だけが目の前に置かれている感じがしてしまう。

多くの人に読んで欲しいけど、
本当に優れた小説だとは思えない、そんな「矛盾」を抱えた本です。

百田 尚樹ひゃくた なおき  永遠の0えいえんのぜろ  読了日:2020年12月31日