何よりも、ミステリ作家として美しく咲き誇る歌野さんの姿に驚かされ、そして見惚れてしまう。

葉桜の季節に君を想うということ (文春文庫)

葉桜の季節に君を想うということ (文春文庫)

「何でもやってやろう屋」を自称する元私立探偵・成瀬将虎は、同じフィットネスクラブに通う愛子から悪質な霊感商法の調査を依頼された。そんな折、自殺を図ろうとしているところを救った麻宮さくらと運命の出会いを果たして…。あらゆるミステリーの賞を総なめにした本作は、必ず二度、三度と読みたくなる究極の徹夜本です。


今更ながら恥ずかしながら読了。ほのかな恋愛小説であり、ハードボイルドな探偵小説であり、それでいてミステリとしても成立している稀有な小説だった。私はミステリとしての評価よりも一冊の小説として楽しく読めた事にまず驚いた。あらすじに「徹夜本」とありますが看板に偽りなし。友人女性から依頼された霊感商法との対決や、回想される探偵だった頃の自分のヤクザの内偵仕事など事件は読者の前に次々に提示され、危険な目にも遭いながら事件解決に邁進する、主人公・成瀬将虎の姿から目が放せない。「デビュー作」と比べると歌野晶午という別人のように感じられ、ミステリ作家として美しく咲き誇る歌野さんの姿に驚かされ、そして見惚れてしまった。

個人的に楽しかったのは霊感商法との対決。ヤクザの内偵の方が実際に殺人事件も発生し緊張感があるのだが、どうも私は霊感商法とか新興宗教の登場するミステリが好物みたいだ。自己分析も上手く出来ないし、変な心の扉の存在を発見しそうで怖いが、この手の団体の商売の手法や教義の内容など、人の心を掌握していく様子が楽しく感じられるのだ。そしてそれらの団体はミステリと非常に親和性が高い気がする。多分、特殊な環境下だから倫理や行動原理が通常の社会とは違くなり、それが物事を複雑にしてミステリの面白さを増幅するからだろう。本書でも1人の女性が商法にはまっていき、そして通常ならば手を染めない悪事に手を染めていく様子が描かれる。勿論、「この物語はフィクションであり実在の人物・団体とは…」という前提だからこそ楽しめるんだけど。

恋愛の描写でも成瀬の不器用で、危険と隣り合わせの恋心を面白く読んだ。どこか不幸のにおいがする女性が好みなのだろうか。仲間のため、仁義のため、そして女性のためならば危険な橋をあえて渡ってしまう彼の考えなしの行動に笑ってしまうが、やはりその行動力には惹かれるものがある。元気ねぇ〜。

そして賛否両論あるのはやはりトリックであろう。これはミステリの中でもかなりインパクトのあるトリックが炸裂している。こういう形で読者の感情に衝撃を与えるものだとは想像もしなかった。もっと言えば衝撃と戸惑いと嫌悪感と違和感と、とにかく様々な感情が読者の頭の中に吹き荒れるトリックである事には違いない。私は物語を思い返したり読み返した時点でトリックは成立し、成功していると思う。そこに違和感や嫌悪感を感じるのは人生を謳歌している桜花の人たちなのだろう(く、苦しい…)。

広い心を持っているふりをしてトリックに関して大らかに語ってみたが、ツッコミ所も沢山ある。まずは地の文はフェアに徹してるかもしれないけど、会話文がアンフェアの域だろ!という怒りにも似た感情。読者が勝手に脳内で再生しているだけなのではあるが、これは現実的ではない…と思う所に差別や固定概念の押し付けがあるという問題にぶち当たり、問題は堂々巡りし、作者の思う壺な気がする。この壺は大変お安く日本の現状を考えることが出来る商品でして…、と蓬莱倶楽部の社員の声が聞こえ始める…。私としてはヤクザ探偵時代に成瀬が解決した、惨殺された死体をめぐる謎の方が本格なミステリを味わえて面白さを感じた。終盤の怒涛の真相発表は非常に目まぐるしく、また全ての出来事を収斂させ過ぎており頭が追いつかなかった。

(ネタバレ:感想→)妹と同居しているはずなのに部屋の広さの狭すぎる問題で、あれっと注意を引いた。妹のフラメンコ趣味は着飾る妙齢の女性のイメージによるミスリードと元気な高齢者の代表という両面で効果的に使われている。読み返すと様々な注意と工夫の痕を見つける事が出来るだろう。が、それ以前に恋愛や性に貪欲な高齢者、そして多くの読者の脳内にいたであろう若々しい成瀬の変貌(笑)に読者がそのまま作品への厳しい評価に繋がっていそうだ。読者も作者も作品も皆、不幸な小説なのかもしれない。
作品刊行から10年経ってやっと知りましたが、「葉桜」ってそういう意味で使われていたのね。購入以来、4月中旬頃に「季節のピッタリ読書」を楽しもうかなぁと思っていたけど大間違い。思い違いが恥ずかしい。
しかし年に1,2冊爆発的に売れるミステリのトリックは高確率で叙述トリックという図式は嫌ですね。歌野さんは長い本格的なキャリアの中での1つの手法ですが、「ミステリ作家」や「ベストセラー作家」の肩書き獲得の安易な手段に成り果てないようにして欲しい。売れるとミステリ以外に進出しちゃうし(念頭にあるのはI坂さんとM尾さん。)。その意味でも叙述トリックはあまり好きではない。(←)

葉桜の季節に君を想うということはざくらのきせつにきみをおもうということ   読了日:2013年06月05日

「著者会心」に偽りなし。トリックのために体脂肪率をワザと落とした鍛え抜かれたミステリアスボディ。

犯人 (創元推理文庫)

犯人 (創元推理文庫)

推理作家同士が果たし合いを。新進作家佐々環が先輩作家若狭いさおを批判したことから、両者は剣呑な間柄となり、とうとう決闘宣言に。心配した編集者たちが小島にある若狭の別荘に駆けつけてみると、密室状態の室内で絶命している若狭を発見した。犯人はやはり佐々なのだろうか。二人の書いた短編ミステリを作中作として織り込むという趣向も楽しい、著者会心の長編推理小説


先日読んだ北森鴻さんの『闇色のソプラノ』の解説の中で『世の中には二種類のミステリー作家がいる。トリック派とプロット派である』という分類法が紹介されていたが、初読書の辻さんの作風まで語れないが、少なくとも本書はトリック派の最たる作品だ。あらすじに「著者会心」という言葉があるが、多分それに偽りはなく、作者は嬉々として書いたに違いない。余計な装飾で飾り立てることもしない、心理を深く掘り下げることに執心しない。全てをトリックのために奉仕した作品である。1行目に「大変だ!」と唐突に始まるミステリ作家2人の因縁の決闘と死体の発見、何編も登場する作家たちの作中作品、最後の1行まで読者を驚かせる趣向を凝らした作品である。
本書には派手さはないが賑やかさがある。前述の1行目からのドタバタ劇を始め、本当に読者が息をつく暇がないぐらいに次々と事件が起こる。トリッキーな本書の中でも特徴的なのが作中作の存在だろう。やや唐突に始まるミステリ作家2人の争いの原因や、作家2人がどういった作品を書いていたのかをプロファイリングする材料として彼らの短編や詩が掲載されている。思いもよらなかった『文章探偵』の登場(「文章」というよりも作品丸々使った「短編探偵」だけど)は興味を惹く作用とともに、口中で味が変わるキャンディのような面白さが生じて病みつきになる。この作家歴は長いが数だけを稼ぎ粗製乱造に陥っていた作家・若狭いさおと、新進気鋭の作家で本人にファンが付くぐらい若く甘い顔立ちをした佐々環の2人の作品は、小ネタが満載でそれ単体でもなかなか楽しく読め、後々の展開にも大いに影響するもので(作品の質や、ヒントとしての分かりやすさは置いといて)、ここでも1粒で2度おいしい効果を生み出している。
作中作では佐々環の『幻覚館の惨劇』は、若狭作品よりも面白くなければいけないという難題も見事にクリアしていて、面白かった。前述の通り、現実の事件の手掛かりになる要素も入れながら、登場人物たちの背景やトリックなどかなり力の入った作品である。この短編に関わらず、どの作品も登場人物たちのその後が気になった。作中作がゆえにスパッと断絶する彼らのその後が気になった。作中作では(ネタバレ→)両者の作品、特に若狭の作品は妙に男性の描写が多く、逞しく男らしい人物像だったので彼が同性愛者なのかと疑った。佐々環の作品もその手の話があり、そういう自分に苦悩していたのかと考えた(←)。意欲的な作品に挑戦する辻さんらしいので、今度は作中作の出来が異常によい(年末のミステリランキングの上位に入るぐらいの)、贅沢で勿体ない、そして粋な作品も作ってほしいなぁ。
(ネタバレ:感想→)表紙はこれで良いのでしょうか。2人に見えて1人というメイントリックの1つをこうも表現したイラストは問題はないのだろうか。作品にマッチはしているが、ミステリとしては最もミスマッチな選択ではないか。そして読者の度肝を抜く最後の一行。私は依然読んだ深水黎一郎さんの某作品(ネタバレしたらごめんなさい)を思い出したが、解説を読みますと辻さんはこの手の作品に多く着手しているみたい。今後読もうとしていた他作品のネタバレをされた恐れもありますが、どんな手法を使われるのか楽しみだ。(←)
私は本書を作中に登場する簡素で味気のない若狭の別荘みたいに思っていたが、感想を書くとその読みどころの多さに改めて気づかされた。広さはないが部屋や収納場所の数がかなりあり、その一つ一つに作者の遊び心が詰まっている。そうすると本書は若狭の別荘ではなく、作中作に登場するトリックアートを始めとした錯視・錯覚を起こす数々の仕掛けが施された『幻覚館』こそが作品の象徴的な建物かもしれない。確かに読者は読了する際に、ある種の眩暈に襲われる。なんだか本書が凄い本に思えてきた(笑)
本書はどこまでも稚気に富んでいる。「こんなトリック思いついちゃったんだけど、どう?」といった雰囲気を、読者も「あぁ、変なミステリだった」と笑って楽しむのが正しい読み方だろう。過大に評価するのは私の実感とも他の読者の評価とも離れたマニアックな読み方だろうし、かと言って稚気を理解せず過小に評価されるのも勿体ない。ミステリにはこんなバリエーションもあるのか、と変格ミステリを楽しむのが良いのだろう。

犯人  存在の耐えられない滑稽さはんにん  そんざいのたえられないこっけいさ   読了日:2013年06月08日

書物は読む者ではない眠を誘う器械である。活版の睡眠剤である。

吾輩は猫である (新潮文庫)

吾輩は猫である (新潮文庫)

中学教師苦沙弥先生の書斎に集まる明治の俗物紳士達の語る珍談・奇譚、小事件の数かずを、先生の家に迷いこんで飼われている猫の眼から風刺的に描いた、漱石最初の長編小説。江戸落語の笑いの文体と、英国の男性社交界の皮肉な雰囲気と、漱石の英文学の教養とが渾然一体となり、作者の饒舌の才能が遺憾なく発揮された、痛烈・愉快な文明批評の古典的快作である。


2013年上半期で断トツの…、睡眠本! 読み始めたのは1月の中旬のはずだから5ヶ月間も私の睡眠を助けてくれていた。難有(ありがた)い難有い。毎夜、まぶたの強い自己主張を受け入れてきたが、2ヶ月ほど経過した夜だったろうか、眠気も吹っ飛ぶような一文に出会った。本書180ページ目『主人の癖として寝る時は必ず横文字の小本を書斎から携えて来る。然し横になってこの本を二頁と続けて読んだ事はない。(中略)、して見ると主人に取っては書物は読む者ではない眠を誘う器械である。活版の睡眠剤である。』という文章。笑った笑った。これぞまさに私の姿、私の言い分。そんな私の代弁者である漱石先生の、そのご著書が睡眠剤になるとはお釈迦様でも気がつくまい。
しかし、本書が決して詰まらなかった訳ではない。むしろ読書前には文学への挑戦だ、と硬く身構えていた心は、良い意味で毒気を抜かれた。隣の学校から野球ボールが打ち込まれたり、「あばた」を気にして鏡とにらめっこしたり、ご近所の婦人の大きい鼻を「見たか、あの鼻。傑作だぜ(意訳)!」と嘲笑したりと『猫』ってこんな内容のない小説だったんだ〜、と頬を緩めて心地良く読んだ(そして眠った)。
では、なのになぜ眠くなるのか。私が猫の飼い主・苦沙弥先生のご友人の美学者で詭弁家・迷亭くんよろしく4つの原因を挙げてみようと思う。1つはその文字量の多さであろう。特に前半に顕著なのだが、会話文でも改行をしないのでページ全体がむらなく黒い。その文章量が読書速度をカタツムリ並にまで引き下げ、視覚的重圧が読書欲を頓挫させる。その精神的抑圧の逃げ場が夢の世界なのではないか。2つ目は難解な語句の多さである。当時の文化・風俗の言葉に加え、苦沙弥・迷亭を始めとした登場人物たちの(漱石自身の)膨大な知識による古今東西の人物・小説・格言・用語・パロディなどなど(無知ゆえに)衒学的とも思える箇所に辟易とすることも多かった。この問題の私の解決法としては「読むけど読まない」である。後半になると読者(私)も心得たもので、演説ゾーンに入ったなと自覚すると、「また言ってらぁ」といった心持で聞き流すように耳を傾けるという按配を身に着けていく。漱石文学の研究者でもあるまいし一文一文に真面目に組み合わなくてもいいという気楽な気持ちが大事、というのが読了先輩からの助言である。そして3つ目が文体の心地良さである。頭の中で音読していると、日本語の調子の良さに眠りが誘発される。悪文より美文の方が眠りに入りやすいとは変な現象だ。そして最後、4つ目が内容のなさである。読み切り短編であったものが読者からの好評を受け、不定期に連載化した本書は、長編小説としては骨となる部分が全くない。元より猫視点の日常小説であり、世界は行動範囲の町内に限られる。私は『猫』ってどんな話?と聞かれたら与太話と四方山話が満載の小説と答えるだろう。確かに考えてみれば漱石の他の書籍『坊っちゃん』や『こころ』『三四郎』に比べて、有名な一行目以外、あらすじの知識も持っていなかったのか…。と、ここまで第1の原因・文字量の多さをこの段落で表してみた。これでは読む気なくすでしょ? 眠くなったでしょ? 第2・3の原因の再現は私には無理なので、第4の内容のなさを頑張って再現してみた。だから大した内容がないのだッ!
と、睡眠作用について考察してきたので、勘違いされると困るけれど、私は本書を大変気に入っている。作品全体から滲み出るおかしみが大好きだ。登場人物たち、中でも猫と苦沙弥先生の主観と客観のズレが特に面白い。鼠一匹取れない猫という一家の評判に対しての実践は見事に失敗するし、苦沙弥先生も出不精でどうにも内弁慶っぽく、本人の気性も相俟ってご近所からは嫌がらせを受けるなどどうにも知識人らしくないのである。登場人物たちは知識人であり会話に衒学的なものを感じたとしても、漱石先生によく似た苦沙弥先生が不遇で、長続きしない趣味や容姿など自虐的な内容が多いから、そこから諧謔が生まれる。精一杯の理論武装、長広舌によるストレス発散と思うと、やがて彼らのことを、この家全体を温かく見守っている自分に気づく。私は多分この時代の女性にしては、ズケズケと物を言う細君が好きだ。この夫婦からは芦原すなおさんの「台所探偵シリーズ」の思い出した。毎度、迷亭みたいな友人がやってきて話をするのも似ている。似ているといえば読書中はずっと「森見登美彦」さんを思い出さずにはいられなかった。彼のルーツの一つは間違いなく漱石に、特に本書にある事が分かった。誰が読んでも損はないが、モリミー好きはまた別の意味でニヤニヤできるはず。
最終回である第十一回は、文明批評がより前に出ていた。未婚化や離婚化、そして自殺問題など現在に通じる問題をこの時点で論じていることに感嘆した。自覚心という言葉で語られる多分、自意識の事であろう問題にも触れていてこれまた驚く。「穂村弘」さんは戦後の民主主義的な個人の平等が自意識を肥大化させた(意訳)というような事を書かれていたが、100年前の漱石の指摘も似ている。漱石先生、日本はこんなになってしまいました、と胸を張れない自分がいた。

吾輩は猫であるわがはいはねこである   読了日:2013年06月14日